名前


 鏡というものは、己の姿も周りの景色もすべて反転させて映し込む。ボクは、これを見ると、どうしてもいつも“彼”を思い出していた。

 なんといっても、似ているのだ。今のボクと、ボクを倒した“彼”は。
 ボクが彼を宿主にしていた経緯からなのか、魔物とそれを倒す勇者が似た容姿、なんて皮肉なことになっている。


 最後に見た彼の表情が蘇る。強い意志を持った灰色の瞳。記憶の彼はこがねの髪を、両の目を煌めかせて、自身の名を高らかに叫んだ。

『ボクはドルチェ=メロディア! ボクの物語を導く唯一無二の主人公だ!!』

 と。
 名前とは、やはり大事なものなのだろうか。ボクは視線を落とした。
 花にはそれぞれ名前がある。ボクには『星空の花屋』の肩書き以外に名前が無い。
 昔奪った“彼”の名前は、ボクの名前ではない。名乗ることは簡単だけれど、それはしない。ボクは負けたのだから名前は返すべきなのだ。
 出会った魔王達はボクを花屋さんと呼んだり、ホシくんと呼んでくれる。これは愛称というものだと思う。ホシは夜空に浮かぶ無数の光……星を指す。

「何者かになってみせるがいい」と放った紅の魔王の言葉を反芻する。

 星のような名前が、──自分の名前が欲しい。主人公の名前が。
 ボクは、誰でもないボクになりたい。ボクの物語を導く唯一の主人公になってみたかった。“彼”のように、自分の名を力強く叫んでみたかった。
 魔王仲間からホシくんと呼んでもらったりしたから、星に纏わるものが本当の名前であったりしたら素敵かもしれない、なんて考えたりして。
 鏡に映りこんだ足下に視線を移す。鉢に植わった花が並んでいた。花もこうして見ると夜空に瞬く星と似ているかもしれない。気まぐれに散らばったり、集まったり、揺れ動いたり。
 ……ところでこの花達は何というのだったか。沢山花弁を付けた紫色の花。それからこぶりな薄紅の花。
 ボクは振り返って、両の花をじっと見詰める。なかなか思い出せない。

「どちらも星の光のように花弁が広がっているでしょう? そちらの紫色の花は星を意味するアスター。紫苑とも呼びます。花言葉は『追憶』や『優美』。そして、隣の薄紅色のがクロウエアですよ。サザンクロス……南十字星とも呼びます。こちらは『願いを叶えて』『まだ見ぬ君へ』『光輝』など星を思わせる言葉が多いんです」

 聞き慣れた声が解説をする。花の魔王人形だった。ボクは花に気づけば手を伸ばしていた。

「アスター、クロウエア……」

 星の光のように、ふわりと広げた花のドレス。目に留まったのがたまたまといえば、たまたまかもしれない。

「これが良い。ボクの、名前」
「名前……?」

 間の抜けた声が人形から返る。ボクは何度も頷いた。ボクは、強く惹かれたんだ。

「ボクは、アスター=クロウエア。自分を見つける星空の花屋」
「良いんじゃないですか?」

 吐息を零すように花の魔王の声が弾んだ。自然と、自分の顔が綻ぶのがわかった。ボクは、名前を手に入れた!

「ボクは、星空の花屋だし、名前がなくても困らないし、どう呼ばれてもいい。けれど、彼みたいに、自分で名乗ってみたかったんだ。……自分で付けちゃって、良かったのかな?」
「良いんですよう。きっかけがあったワケですし?」

 何気ない日が、特別になった。今日からボクはアスター=クロウエア。これが他の誰でもない、借り物でもないボクの名前。
 鏡に映った時に蘇る彼に、返す自己紹介ができた。