第20更新 火傷

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 天樹には火傷の痕がある。
 これは、目に見える戒めの焼印である。狐の怪異と対峙した際に負ったものだ。表向きは火事に巻き込まれた際の負傷となっている。

 おおよそ8年前。異界から辛くも帰還した現世の空は、青く澄み渡って晴れていた。
 嘘のように穏やかで、静かで、入る前の天気雨すら止んでいた。
 頬を撫でる涼風が、天樹の焼けた皮膚にはびりびりと痛みを与えていたことを覚えている。
 天樹は、異界で呪力を狂わせ熱を上げる珠緒を離さなかった。珠緒に触れた先から、纏う高温耐性を突き抜けて肌が爛れた。
 これぐらいの代償で弟の命ひとつ助かるなら誤っていないと思う。
 しかし。一つを助けて、一つを失った。
 兄の榮花を異界の中に見捨てて退却したことを、正しいと判ずるのは憚られた。
 榮花までを助ける実力が無かったことは確かだ。だから退く以上のことができなかった。それだけ。
 それだけのことが、どれだけ悔しいことかをこの火傷は刻んでいる。

 脱出後、異界の反応は唐突に消滅した。自分達が脱出して程なく。いくら位相を探っても、計測器を用いても存在は掴めなくなった。
 それ以上榮花と異界を探すことは出来なかった。
 桔梗院の関連病院に生存者を引き渡して任務の報告もしなければならなかったのだ。

 原因の分からない異常は未だに解決しない。
 異界が崩壊したのだとしたら、榮花が戻らないのは何故だ。消滅の前触れのようなものすら感じなかった。
 異界の消え方は、例えるなら音楽プレーヤーが急に停止するような、これまで続いていた奔流の途絶だった。


 榮花は年子の兄だ。ちょっと早く生まれたくらいで何が兄だと喧嘩もよくした。
 兄と言ったって天樹より抜けているところはあるし、部屋の片付けも下手だ。
 けれど尊敬出来るところが無いわけじゃない。
 榮花は、退魔師という立場や怪異と戦う運命を粛々と受け入れていた。生来の退魔師とはそういうものだと理不尽を覚えることも無く納得していた。
 そんな榮花を見ていたから、天樹も彼に並ぼうとした。腕っ節の強さのように追いつかないところはあったが、彼があまり扱わない後衛技能を伸ばせば自尊心を削る事無く、役割分担として良い結果を生んだ。

 優秀な珠緒のことは、昔は正直を言えば面白くはなかった。やってることはそう変わらないのに、自分が苦労した壁を易々と超えてくるのだ。
 榮花にもそれを零したことがある。

「まあ、俺も珠緒にはびびるからわかる。けど周りが優秀な分には俺が助かるからなあ」

 榮花はそう言っておおらかに笑う。
 歳一つ違うくらいで、なぜこの差が生まれるのだろう。
 榮花には、余裕があった。本人は恐らくそれを余裕とも思っていなくて、他に無数にある事柄に思考が流れていたのかもしれない。
 もしかしたら次期当主として自覚した時点で、榮花はそうやって己個人に頓着しない生き方を身に付けていたのかもしれなかった。
 そういうところが榮花に敵わないと同時に、敬意を抱くところだった。

 榮花はこの世界に戻るべき人間だ。
 榮花の失踪は自分の手で解決せねばならないと思っていた。どんなに酷な結果が待っていようとも、自分の手で。
 珠緒は、あれだけ才能を誇らしそうにしていたのにすっかり意気消沈してしまった。退魔師や怪異を恐れている。
 もう、なにも恐れなくて良いようにしてやりたかった。

 珠緒が退魔師を続ければ、榮花の亡骸や、榮花を喰らった怪異と対峙する可能性がある。榮花を失った頃の珠緒取り乱し様を考えれば、続けさせるのはあまりに気の毒だ。呪具職人の叔父が声を掛けてくれて良かったと思っている。
 人道に基づくならば榮花の生還を望むべきであるが、月日は流れた。天樹は心のどこかで、もう戻らぬものという覚悟をしていた。
 曲がりなりにも榮花に代わる次代の当主として抱いて、今日まで

 しかし、霊山榮花は戻ってきた。
 居なくなったあの日と変わらぬ姿で。

 珠緒から連絡を受けた時、天樹は真っ先に式神を三体、護衛に向かわせた。
 珠緒は、呪力が強い。それ故か時折、思わぬ怪異を引き寄せる。
 叔父の家は護符や魔除けも完備されているし、珠緒も御守の類いは持ち合わせている筈であるが、怪異が潜り抜けるのも有り得ない話じゃない。
 自身が叔父の家へ辿り着いた時、珠緒は結界越しに榮花を見て狼狽していた。
 天樹は叔父から事のあらましを聞き、榮花に呪縛の符を丹念に貼った後に、たじろぐ珠緒を連れて蝋燭屋に向かうよう彼に指示した。
 あそこなら使い慣れた呪具も退魔師も多い。安全性は高いはずだ。

 天樹と榮花は、二人残された。
 あの日から切り取ったような榮花と、8年が経過した天樹。
 何も話すことはしなかった。
 呪符の効果で必要時以外話すことが出来ない榮花は元より、天樹もまた話すことを避けていた。
 様々理由はある。呪詛は跳ね除けても口車に乗せられかねないとか、隙に付け入られそうだとか。
 天樹はなによりも、話せば自分から何か良くないものが引きずり出されそうで、それを危惧した。
 自分では対応できそうにない。天樹はこちらに来てから知り合った梅影という退魔師に連絡を取る。そして、通話を切ってから嘆息した。

 霊山榮花の帰還を手放しで歓迎することの出来ない、この世界の仕組みが憎い。自分が、憎い。

 梅影が来てから一つ一つ確認した。
 霊山榮花と名乗る異質な存在は、敵意が感じられない。不意を打った傷害行為に対しても抵抗をしない。
 話す過去の出来事には天樹の把握している情報と齟齬はなく、過去からそのまま現れたような超常の権化である以外は普通の人間である。

 どうして、怪異の性を顕してくれないのかと願ってしまった。
 都合をつける答が得られないことに気を揉む、浅ましく醜い外道の発想だ。

 天樹は雑念を振り払うように退魔師としてすべき事を捌いていく。
 後日、各関連機関に榮花に纏わる調査を依頼した。
 世界に消された榮花の痕跡は、戻っていない。
 研究機関の調査の結果、榮花は概ね人間と相違ないが僅かに呪素や呪力の時流や性質は世の理を外れている。
 怪奇現象、もしくは人型の怪異。今の榮花はそう表現するのが相応しい。

 その報告に、安堵してしまう自分が居た。
 退魔師としては正しくて、兄を慕う弟としてはきっとおかしい。

「テン兄、最近新しい仕事忙しそうだね……。喜楽里にできること、ある?」

 報告資料を前に思考に耽っていた折、妹の喜楽里が心配そうに尋ねた。
 喜楽里は地元から天樹と二人で陽桜市に来ている。初めは実家で待つように言ったが、巨大異界の発生地が珠緒の居る陽桜市だったこともあり頑として聞かなかった。
 彼女には今回の榮花の出現を知らせていない。退魔師として知らせるべきだと思っていても。

「……タマが、最近へばって来てるから。元気づけてやってくれるか」

 霊山天樹は、どちらつかずだ。
 徹底した退魔師にも、普通のきょうだいにもなることができない。