第12更新 鉛の呪い

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 なにかを失った退魔師という存在は珍しくない。
 家族、友人、居場所、心、記憶──それらを奪う者から守るのが退魔師の仕事であるからして、その成否は成に傾く方が理想であるが現実的ではない。

 巻き込まれた一般人にも、失われた経験から退魔の世界に足を踏み入れる者が居る程度には。
 一般に怪異や呪術のことは記憶の改竄処理等を以て秘匿される。
 ただし、後天的に呪術の才を開花させた場合はその限りではない。呪素の濃い領域や強い感情によってそれは引き出されることがある。
 故に、凄惨な怪異的事件に遭遇した当事者が、駆けつけた退魔師や関係者から道を提示されることも少なくはない。

 知らぬ世界の傷を理不尽に残され、忘却を拒み進む者達だ。中には忘却を許されぬケースもありはするのだろう。それでも、傷を負って尚。
 復讐、悔恨、正義、発散。理由が何であれ強いと珠緒は思う。

 珠緒は、退魔師霊山の血統を継いでいる。最初から恵まれた呪術の才を持っていた。
 技を教わり、それを持つ意義と責任を教わり、退魔の心構えを育み、再三退魔の世界の厳しさを頭に刻み込んでいた。
 しかし呪術の才と退魔の才がイコールとは限らない。
 心が傷つくことが少なかったのは、幸か不幸か。一度の傷が深く残る。


🕯


 霊山家の父である秋水は、珠緒の初陣は兄の援護から始めるのが妥当であると考えた。

「まずは動きさ勉強しねっかなんねぇな。兄ちゃん達と出てよく見ろ」

 それは大変よい采配と言えた。
 長男の榮花は呪具の刀を振るう斬り込み役だ。その刀は形無き敵にも傷を作り、付いた傷は因果から熱を与える。
 一方、次男の天樹は多数の式神や呪具を用いた後方指揮を得意とする。
 二人とも補助的に違った戦法は用いるが、得意分野では前衛と後衛が揃っていた。
 そこに幅広く術を使い分けられる珠緒を入れれば、身内のみでもそれなりにカバーし合える体制が取れたのだ。

 お陰で他の退魔師と組んだ初めての退魔業務は恙無くこなされ、以降も兄弟だけで討伐の回数を重ねられた。
 多少の怪我やミスはあっても、互いに助け合えば最後は怪異の核を破壊できる。成功の回数だけ珠緒には自信を与えられた。

 初夏に入った頃の話だ。珠緒の町で異界が生まれた。
 桔梗院の霊位計測器が反応を示し、記憶喪失現象が確認されたのだ。
 市役所役員に扮した退魔師からの報告で、市民の記録が数名分消えたらしい。
 異界に取り込まれた者は人々から忘れられ、生きていた痕跡が修正され、最初から存在しなかったように世界から消えていく。
 早急な解決のため、桔梗院の所属且つ異界発生地点に比較的近い霊山家が異界の調査を受けることになった。

「喜楽里ちゃんはお留守番しててねえ」

 珠緒はまだ幼い喜楽里に手を振り玄関を出る。
 8つの喜楽里は流石に連れて行けない。当主の父は別件の仕事だ。母は喜楽里や家を見てやらなくてはならない。
 上の兄達は異界も経験済みだったこともあり、榮花、天樹、珠緒の三人で向かった。
 発生源は山の人通りが少ない山中で、測定された範囲は半径100m弱。ここに高低差や縮尺の歪みが加わるとしても、将来的に遭遇する陽桜異界よりはずっと一般的な規模と言える。

「雨だ」

 報告にある異界の発生位置に近づいた頃、榮花が言った。
 天気雨だ。空は晴れているのに、雨が降る。
 珠緒は不意に、帰り道のバス停を思い出した。だから何、という訳では無いのだが。
 なぜなのか、首筋に怖気が走った。

「天気雨って別の名前あるよな。狐の嫁入りとか、日向雨とか、天泣とか、そばえとか」

 天樹が雑学を口にしながら呪具蝋燭『夜花』に火を点ける。自分達の気配を誤魔化し、悪いものを退ける呪具だ。囲えば外界と隔てる結界として機能する。
 一度灯った火は呪術的性質を持ち、雨くらいでは消えない。突然の悪天候でも重宝した。

「狐の嫁入りかあ。化かされてる気がするから、とかだっけ。狐の仕業なら厄介だな」

 榮花がぼやく間に、天樹が呪術を用いて異界へ通じる入口を拓く。

「タマ、どうした?」

 天樹が作業の輪に加わらない珠緒の様子を気にする。いつもなら積極的に見学をしていた。

「いや、ちょっと。なんか……怖くて」
「ああ、悪い悪い。ビビらせたか? 心配すんな。珠緒は居りゃ安泰ってくらい頼りになる」

 榮花がばしんと珠緒の背を叩く。勢いが強すぎて噎せてしまう。
 だが、この信頼が言いようの無い不安を押し込めてくれた。自分には信頼されるだけの実力がある。兄達もまた、頼れる退魔師だ。
 珠緒は自らを奮い立たせ、兄達と異界に足を踏み入れる。

 中は怪異の巣と思えぬほど長閑な野山の風景だった。異界の性質はそれぞれ異なるものであるが、呪素がうねるかのような赤黒い雲も見られない。
 この異界は外界との区別がつかぬ程、青い空も、そよぐ緑も、すべてが穏やかだった。入る前に降っていた雨も止んでいる。
 しかし、山の広大さを感じさせるのは景色のみらしい。一定範囲を超えるとそれより外には進むことができなかった。歩いてみても気づけば位置が戻される。
 桔梗院から報告された測定範囲と体感に相違は無さそうだ。

 『夜花』を後衛の天樹が持ち、獣道を進む。平地よりは足場が悪く歩きにくい。
 そう時間が掛からぬ内に、妙に開けた領域に入った。大樹がそびえ立ち、その前に小さな祠が印象的に佇んでいる。

「でけえ樹。いかにもだな」

 榮花が刀の鯉口に指を掛ける。異界を作り出せるのは、決まって強い力を持つ怪異だ。
 “迎撃体制を取れ”。その合図だった。
 ざあざあと木々がざわめく。穏やかに、嗤うように。風が吹き抜ける。
 ギィン、とけたたましい金属音が響き渡った。
 見えなかったそれに傷が付く。同時、鎌のような爪を携えた鼬が姿を現した。鎌鼬だ。襲い掛かった鎌鼬の爪を、榮花が弾いたのだ。
 すかさず追うように榮花は斬り掛かる。相手に隙を与えず、こちらの時間を作ることに徹していた。
 『夜花』の誤魔化しは既に見破られている。弟達に近づかせまいと呪術で足下から火柱を立て、進路を塞いだ。

「テン兄! 炎陣張った!」

 珠緒の声に天樹が頷いた。炎陣は炎で囲った陣地から様々な効果を生む呪術だ。
 内から天樹が狙いを定め、退魔用ガス弾を放つ。

 この連携も慣れたものである。
 榮花が前で注意を引く間に珠緒が守りを固め、天樹が榮花の攻め手を援護する。
 七色の炎が陣を描けば流れはこちらのものだ。
 天樹の式神や呪具が追い込み、動きの鈍った鎌鼬に榮花が迫る。
 どんな怪異でも核を破壊すれば消滅する。刀身は核目掛けて振るわれ、寸分の狂い無く焼き斬った。
 正に一気呵成と言うが相応しく、事は成し遂げられたのだ。
 呪術の火を鎮火させ、静まり返った山中に榮花が細く息を零す。

「よし。じゃ、生存者探して帰るべ」

 にっと榮花が口角を上げた。
 異界は異界を発生させている怪異を祓い、儀式を行うことによって消滅させることができる。
 異界に取り込まれた被害者を確実に帰せるよう、生存者の捜索をしてから儀式を行う手筈となった。
 天樹が呪符から式神の鬼火を呼び出し、探索に向かわせる。
 そう広くないこともあって、探せば取り込まれた人はすぐ見つかるだろうと思われた。が。

「……居ないな」

 一人も見つからない。榮花は表情を硬くする。

「報告じゃ数人……少なくても5人は記録が消えてたらしいんだけども」
「間に合わなかった、のかな」

 珠緒がおずおずと口を挟んだ。十分有り得る話だ。
 記憶消失現象が確認されてから動いている以上、後手に回っている。怪異が綺麗に喰ってしまえば亡骸すら見つからない。
 珠緒はこれまで、死亡を確認した経験が無い。いよいよ来たかもしれないと息を呑む。
 そんな珠緒を見てか、天樹が口を開いた。

「否定はできない。けど、怪異が形を変えて餌を隠していることもある」
「そうだな。もう少し探すか」

 天樹の意見を受けて榮花が提案する。
 二人とも、珠緒を気にしてくれたのかもしれない。
 この世界での喪失が珍しい話ではないとしても、最善の結果を望む人情は霊山家にもあった。
 せめて死体があるなら、弔ってやろう。それくらいの時間は割ける。霊山の起源は慰霊であるのだから。
 兄弟は再び念入りに捜すことにした。
 そうして粘り強く探す内に、異界に変化が現れる。何も無かった道沿いに祠が現れ出したのだ。

「なんだ、いきなり」

 榮花が呪術を用いて、祠の纏う気配を視認する。邪気や呪力、生命反応と言ったものが色や形の視覚情報で表れる術だ。
 視てから程なく、榮花が眉根を寄せた。

「人の、生きている人の色が視える……」

 声色が強ばっていた。何も無かった時には全く感じなかった其れが、急に出ている。
 兄弟は祠を『夜花』で囲い、呪素を祓う。祠だった其れは形を失い、やがて倒れ伏した若い女性が残された。

「天樹、珠緒。急いで回れ。まだ終わってない」



 兄弟は手分けして異界の山を駆け回る。
 一人に一つ、伝令役の鬼火を着けて山を回り、祠が見つかる度に呪素を祓い、形を人間に戻す。
 あれから見つけた生命反応がある祠は、どれも漏れなく生きた人間だった。祠がある場所に規則性は無く、虱潰しに探すしかできない。
 決して大規模な異界ではない。しかし3人という人数と、山という環境が移動を難儀にした。

「くそっ……」

 珠緒は息を切らせる。休む暇も無いというのに、肉体が限界を叫ぶ。あと何人だ?
 異界の空に花火が上がる。
 生存者を見つけた際は鬼火を打ち上げて知らせることになっていた。場所さえ分かれば、天樹の式神が運びに来てくれる。

 今の花火は、最初の少女を見つけてから4回目。5人目の生存者。少なくとも5人が消えているはずだ。これで全員か? この他には? 祠は幾つある?

 ────祠。

 珠緒は鎌鼬と交戦した大樹の下へ急ぎ戻ってきた。
 先程と変わりない。大樹を背景にして、相変わらず祠が安置されている。
 これだけは最初から存在していた。だのにこの祠を、まだ誰も調べていない。
 榮花も天樹も最初からなぜかこの祠については一切言及しなかった。大樹以外目に入らないかのように。

 どういうことなのか。珠緒にだけ、視えていた。
 いや、恐らく視えても意識を逸らさせる何かが在る。強力な認識阻害のようなものが。珠緒すら今の今まで忘れていた。
 この祠だけ、何か違う。
 珠緒は呼吸を整え、祠を前に四つの手順で指を組む。

「化生の者か、魔性の者か、正体を現せ」

 三度、呪文を唱えた後に組んだ指の間から祠を視る。本性を見破る簡単な呪術だ。
 指の隙間から覗き見た祠は、影のように黒く、立体感がまるで無かった。
 見破られた影は逃げるように溶け出す。

「逃がすか!」

 素早く滑る影を、珠緒が奔らせた彩焔が追走する。七色の炎は生きた獣のように影を呑み込み、焼き焦がした。
 祠のあった方を見遣ると、大樹の根元に一人の少女がもたれかかるようにして倒れ込んでいた。
 倒れたその身に纏う紺色のブレザーに、短く切り揃えられた髪。見覚えがある。

「居た! 菊星、知らせて!」

 名を呼ばれた鬼火、菊星は空に昇る。
 珠緒はそれが空で大きく弾けたのを見届けてから少女に駆け寄った。
 見つけた。人だ。あの子だ。

「大丈夫ですか!」

 少女が、少しの呻きと共にぼんやりと目を開ける。困惑した様に、珠緒をじっと見詰めていた。

「君、は……」
「えっと、よかった。何があったかは……その、追々。一先ず帰れるよう案内するんで、立てます?」

 珠緒が手を伸ばすと、少女は控えめに頷いてその手を取る。
 差し伸べた手を握り返す少女の手は、雨ざらしに遭ったように冷たかった。

「え、っ?」

 珠緒は、呪力が強い。弱い呪素は、自分の呪力に紛れてしまい感じ取ることができなかった。
 力の強い怪異は上手に気配を隠す。人と見紛うほどに。
 珠緒の手を握る温度は人のそれではない。

「ああ、美味しそう」

 ぽたりと。どこからか水滴が頬に落ちた。ぽつぽつと雨が降り出す。
 木漏れ日の下でうっそりと目を細める少女の顔に長い髭が伸び、獣の口が現れる。
 こんな事例、何度も聞いていた筈だった。

「お前は美味そうな匂いがする。ずっと、ずっと食べてみたかった」

 ────狐だ。
 縦長の瞳孔と目が合うと、途端に身体から力が抜け落ちる。
 掴まれた手は凄まじい力で握り込まれ引き抜けない。そうしている間に溜まった雨水に足が浸かっていた。
 異常な速度で降り注いだ雨粒が暈を増していた。いつの間にか周囲の傾斜は高くなり、この場がすり鉢の底のように低く沈んでいる。
 呪術で振り払おうにも上手く火が点かない。地面は泥濘み、重たくなった足が忽ち水に呑み込まれていく。
 引き攣り狭まったような喉をこじ開け、珠緒はどうにか声を上げた。

「ッエーカ兄! テン兄!」

 狐が珠緒の頭を掴んで押し倒す。膝ほどまで来ていた水位に顔は容易く沈んだ。
 息が出来ない。きらきらと波打つ水面に偽の太陽が笑いかけている。その中に、歪んだ笑みの狐が映っていた。
 呼吸が失われ、体は冷えていく。死というものが、明確に近づいていた。
 最早自力で復帰することは叶わない。
 感覚も曖昧になった頃、身体に掛かる圧力が取り去られたことに遅れて気がついた。

「タマ! しっかりしろ!」

 その声も、体の自由も遅れて認識することになる。珠緒は天樹に助け起こされていた。
 水面から上げられた頭が反射的に水を吐き出す。
 横目に状況を見ると、天樹の使役する式神である青鷺火──火を纏う青い鷺──が狐を追いやっていた。

「嗚呼、まったく無粋だこと」

 煩わしそうに狐の目が眇められる。
 距離を取ったそれは、獣とも人ともつかぬ指をピン、と跳ねた。

「祓いの者は都よりずっと少ないがの」

 雷でも落ちたような音が鳴り、青鷺火が裂けた。式神は唯の和紙となり、はらりと落ちる。
 狐は式神から興味を失ったように視線を珠緒に戻した。他はまるで眼中に無い。
 榮花が、背後を取っていた。気付かなかったわけではないだろう。
 狐は死角から火球や斬撃が飛べば難無く躱し、炎の陣に囲われればその火を吹き消した。

「そら、一番若いの。おいで。お前一人来れば後は見逃してやろう。本当は全員喰ろうてやりたいが、妾も鬼ではない。狐だがの」

 暫く榮花の剣術や火炎術が狐に向けられていたが、その全てが小競り合いにしかならずにいた。
 邪魔になったのか最後には榮花の腹部を強く蹴り飛ばして、2、3度鋭い爪で切り付ける。

「聞いておるか」

 一歩、一歩と水面に小波を立てて狐が歩み寄った。

「来るな!」

 天樹が炎陣と『夜花』で自分達を囲う。その陣の目と鼻の先に、狐が立つ。
 榮花が血を吐いていた。榮花の下で水が赤黒く濁っている。

「そうして引き篭るのも良いが。いずれ火は消えるぞ?」

 珠緒は見ているだけしかできなかった。目を凝らして見たところで、頭は回らず硬直していた。
 あれは、強い。死ぬ。死んでしまう。自分が。兄弟が。
 そこに生まれた恐怖は怒涛の如く。堤防が決壊するように、珠緒の感情の箍が外れる。
 呼吸が、荒れる。

「熱っ……! タマ!?」

 それは誰も意図したことではない。なんの前触れもなく、辺りに七色の炎が溢れ返った。

「がああッ! 小癪な!!」

 浴びるように彩焔を被った狐が悲鳴を上げる。
 珠緒が呼吸する度に炎が広がった。敵も味方も見境なく、全てを焼き払うように火柱が立つ。
 霊山の退魔師には高温に耐性をつける術がある。しかし、その敷居を遥かに超えていた。

「天樹! 珠緒、どうした!?」
「わからない! タマが熱い!」

 珠緒は震えながら過分に呼吸を繰り返すだけだ。天樹が呼び掛けても返事は無い。

「何だこれは! 小僧、何をした! 消えぬ、消えぬ、あ、あ、あ、ああ、ああ、熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!!」

 狐の苦悶に喘ぐ声が炎の中で響き渡る。しかし今の兄弟にはその事実を吟味する余裕も無い。
 七色の炎がみるみる内に異界を焼き焦がす。軽い池と化していた一帯を早々に干上がらせ、緑を遍く灰燼と変えた。
 勢いは留まるところを知らない。彩焔はこの異界をを火の海に染め上げる。呪力の込められたそれは出鱈目に境界を隔てていた。

「兄貴!」

 炎に閉ざされた向こう側に狐と榮花が残される。
 感情により一般人の呪術の才が引き出されるとは、誰が言ったか。
 もし、血統由来の才にもそれが起こらないとは誰が言えたか。
 絶対の理などない、呪術の世界の話である。

「タマ、落ち着け、タマ!」

 天樹の声は、珠緒の耳に届いてはいた。
 けれどもどうにも出来ない。止められない。炎は全てを拒絶し呑み込んで行く。
 生きたようなその火炎は湧き上がっては奔り出し、跳ね回っては弾け飛ぶ。

「天樹! 珠緒連れて戻れ!」

 炎で線を引かれた境界の向こう、榮花が叫んだ。

「兄貴は!」
「こっち何とかしてから行く!」

 天樹は逡巡を置くように一時、言葉を詰まらせる。
 燃え盛る狐、負傷した榮花、パニックを起こした珠緒。
 まともに動けるのは天樹だけだった。

「タマ、帰るぞ!」

 天樹の拳が叩き込まれたのを最後に、珠緒の意識は途切れた。



 次に珠緒の目が覚めたのは、家の布団の上だった。
 火傷を負った天樹が淡々と事の顛末を話す。
 あの後、異界の反応は唐突に消滅したそうだ。
 狐も、榮花も、あの山の異界も。その後のことは杳として知れない。
 霊山榮花は、いつまで経っても戻って来なかった。
 この町に生きていて、世界の修正に抗う術を持つ者だけが榮花のことを知っている。
 そんな話を、珠緒の顔を見ることなく。

 混乱ばかりが残されていた。けれど珠緒にもわかることがある。
 この混乱の引き金を引いたのは、珠緒だ。

 後に聞いた話によると、バス停で出会った少女は、あの雨の日から行方が知れなくなっていたらしい。

「ずっと、ずっと食べてみたかった」

 脳裏で狐の声が蘇る。あの日に降り注いだ天気雨──狐の嫁入りが、もし偶然でなかったとしたら。
 もし少女と話さずにまっすぐ家に帰ったなら。
 異界に入る前に強く兄に違和感を述べたなら。
 もし異界で少女の正体を疑っていたなら。
 幾ら考えても詮無いことが珠緒を覆い尽くす。

 珠緒は榮花を焼き尽くした異界の中に置き去りにした。
 珠緒は天樹に消えない傷痕をつけた。
 珠緒は喜楽里や両親から榮花を奪った。
 その日を境に、珠緒は自分が特別でも何でもないのだと知る。
 物覚えが良く体が恵まれた程度では、到底天才とは呼べないのだと。

🕯

 予報外れの雨が降る。珠緒はこういう天気があまり好きではない。
 見通しは逸れ、目論見が外れ、被害だけを被る。何もかも上手くいかなくなる気がするからだ。